2010年9月13日
「拡大教科書に関する現状と教科書バリアフリーの今後の展望」
筑波大学附属視覚特別支援学校学校 宇野和博
1.義務教育段階の拡大教科書
2008年6月、「障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律」いわゆる「教科書バリアフリー法」が成立し、文部科学省が定める標準的な規格に基づく拡大教科書の発行の努力義務が教科書出版社に課せられた。同時に文部科学省内に拡大教科書普及推進会議が設置され、義務教育段階の拡大教科書の標準的な規格の検討が進められ、2008年12月に公表された。この結果、出版社から発行される拡大教科書は2008年度では69点だったが、2009年度には154点、2010年度には180点へと増加した。そして、来年度の2011年度に小学校の教科書は全面改訂されるわけだが、その時にほぼ全ての教科において拡大教科書が発行されることが明らかになった。具体的には小学校の全検定教科書280点のうち、278点において文部科学省が定める標準規格に基づいた拡大教科書が発行される予定である。中学校については、2010年度現在では、検定教科書総数134点のうち、98点において拡大教科書が発行されているが、これも2012年度の教科書改訂時には同様な改善が求められるところである。ちなみに文部科学省の定める標準規格では、本文の字体は原則としてゴシック体、文字の大きさは、22ポイント程度のものを基準の版とし、その1.2倍程度の26ポイント程度の版も作成することと0.8倍程度の18ポイント程度の版も作成することを求めている。
2002年に拡大教科書に関する著作権法が改正され、その後2004年度に小・中学校に在籍する弱視児童生徒の拡大教科書が無償給与されるようになって以来、現在までその供給の大半をボランティアに依存し続け、時にはボランティアがパンク状態に陥り、弱視児童生徒が拡大教科書を入手できないという事態も起きていたが、ようやく義務教育段階では安定的な給与体制が確立することになる。この改善は弱視当事者はもちろん、保護者、拡大写本ボランティア、視覚障害教育関係者などにとって大変喜ばしいことである。
2.高校段階の現状と実態調査
2008年度の拡大教科書普及推進会議では、高校段階における拡大教材のあり方や教育方法については検討されたが、義務教育のように拡大教科書の標準的な規格や教科書デジタルデータの提供方法は検討されなかった。よって、教科書バリアフリー法が施行された2009年度でも盲学校高等部においてさえ拡大教科書は全く発行されなかった。その後、2009年度に文部科学省内の「高等学校段階における拡大教科書標準規格等検討会」において高校段階の拡大教科書の標準規格と教科書デジタルデータの提供方法が検討され、2010年1月に公表された。内容は義務教育段階と同様に18、22、26ポイントの3種類のレイアウトを変更した拡大教科書のほかに、原本をA4判に単純に拡大した14ポイント程度の拡大教科書も合わせて発行するよう求めている。
一方2009年度には全国の視覚に障害のある児童生徒を対象に適切な教科書に関する実態調査が行われた。視覚障害児童生徒総数6825名のうち学校として主に点字教科書を使用することが望ましいと判断されている児童生徒数は419名、拡大教科書は2087名、通常の検定教科書は2277名、一般図書は2042名という結果であった。拡大教科書を必要とする2087名のうち、高校段階は562名であり、その内訳は特別支援学校高等部が444名、通常の高校が118名ということであった。
3.盲学校高等部の現状
高校段階の検定教科書数は義務教育段階の427点よりも遥かに多い983点である。しかし、盲学校は全国で教科書採択を統一しているため、その数は46点に絞られる。また、盲学校には就学奨励費制度があるため、教科書代を生徒が自己負担する必要はない。つまり、46点の拡大教科書が発行されれば、北海道から沖縄までのすべての盲学校の弱視生徒が確実に拡大教科書を入手できることになる。よって、第1段階として盲学校採択の46点について標準規格に基づいた拡大教科書が発行されるべきというのは当然である。その後、2010年1月に標準規格が公表され、同年4月には実際に盲学校採択の31点の拡大教科書が発行されたが、その内容は決して十分というものではなかった。標準規格通りに4種類の拡大教科書が発行されたのは、三省堂の「SELECT Oral Communication 1 」のわずか1点。大半が単純に原本を拡大しただけの拡大教科書のみの発行に留まった。また単純拡大の拡大教科書すら発行されない科目が15点に上った。確かに製作の手間やコストは単純拡大教科書の方が容易で安価である。しかし、より切実に拡大教科書を必要としている強度の弱視生徒のニーズは明朝体や教科書体ではなくゴシック体、文字の大きさも18〜26ポイントであるため、需要と供給のずれが生じてしまっている。そもそも単純拡大教科書についてはわざわざそれぞれの教科書出版社が作成するまでもなく、文部科学省が提出される教科書データを活用し、オンデマンド印刷会社に一括で委託する方が確実で安価に供給できると考えられる。もしくは学校で検定教科書を拡大コピーすることも可能である。各教科書出版社にはレイアウトを変更した拡大教科書の発行のみに専念できるようにし、4種類の拡大教科書の供給方法の役割分担について再検討する必要がある。そして2011年度からは46点すべてにおいて標準規格通りの拡大教科書が発行され、少なくとも盲学校に在籍する弱視生徒がそれぞれの視機能に合わせて拡大教科書を選べるようになっていてほしいものである。それが視覚障害教育の専門機関として視覚障害特別支援学校(盲学校)を設置している国の責務であり、教科書バリアフリー法第六条が求める教科書出版社の果たすべき役割といえよう。
4.製作費の自己負担
通常の高校に在籍し、拡大教科書を必要としている118名の弱視生徒には特別支援学校にはない重い負担がのしかかっている。鳥取県や島根県などの一部の自治体を除き、拡大教科書の費用を保護者が自己負担しなければならないという問題である。
118名の弱視高校生の一部は、現在でも拡大写本ボランティアに拡大教科書を製作してもらっているが、義務教育や盲学校のように無償給与の制度がないため、検定教科書の数十倍に及ぶ製作費を自己負担している。これは2006年に国会で3度にわたり、改善を求める付帯決議があったにも関わらず、4年以上放置されている問題である。通常の高校については、価格差補償などの公費による自己負担の軽減策が講じられない限り、いくら供給体制を整えなくてはならないにしてもボランティアよりもはるかに高額になる出版社に拡大教科書の発行を求めることは現実的な解決策とは言えない。
5.学校へのデジタルデータ提供の意味
文部科学省は2010年度から特別支援学校高等部や高等学校を対象に拡大教科書作成のためのデジタルデータの提供を開始した。これは義務教育段階では主に拡大写本ボランティアを対象に行っていたものを高校段階については学校の教員へと対象を拡げたものである。それでは、弱視生徒の学習環境を整備するという目的に照らし、これらの学校へのデータ提供がどのように意味を持つか、陸上競技の400mトラックにたとえて考えてみる。
教科書出版社が拡大教科書を発行するということは、弱視生徒に確実に拡大教科書を手渡すというゴールまで教科書出版社が一人で400mを走り切ることを意味する。正に不安要素のない400m走であり、完全な制度設計である。しかし、教科書出版社が教科書データを提供するだけにとどまるということは、400m走を400mリレーに変えてしまうようなものである。まず、第1走者である教科書出版社は、教科書データをPDFにし、データ管理機関にバトンタッチする。第2走者のデータ管理機関はそのPDFデータを希望するボランティアや学校に提供する。但し、PDFではコピーアンドペイストできない部分もあったため、可能な限りTXTファイルやJPGファイルに変換したものも併せて提供することになっている。第3走者のボランティアや学校はそのデータを活用し、拡大教科書用にデータを加工する。そして、第4走者の役割である印刷・製本へとバトンをつなぐわけである。しかし、ボランティアの場合はそれぞれが製本技術を総意工夫しノウハウを蓄積しているためゴールまで走ることができるが、学校には印刷製本機がないため、ホッチキスでとめる程度の製本しかできない。本来ならば、少部数の印刷が得意なオンデマンド印刷会社に外注したいところだが、その予算も措置されていない。そもそも近年、学校現場では事務作業が増え、なかなか生徒と向き合う時間すら取れないという現実がある中、本当に教科書1冊を再編集するということが技術的にも時間的にも可能なのかどうか、甚だ疑問が残る。つまり、バトンが必ずゴールまで戻ってくるためには教科書データを学校に渡すという制度設計だけでは不十分であり、それぞれの走者の不得意な点をフォローするようなサポート体制が必要と言える。または餅は餅屋という考え方に戻り、やはり教科書の発行は教科書出版社に任せ、学校の教員はその教科書を使って生徒を指導するという原点に立ち返るのが望ましいと考える。
6.理想的な安定供給体制とは?
ある教科書出版社から高校段階のレイアウトを変更した拡大教科書を1冊作るのに890万円かかるという試算が出されている。これは極端なコスト計算としても、現在のDTPソフトを使った拡大教科書編集には数百万円の費用がかかるのも事実である。しかも盲学校の場合はある程度まとまった発行数になるが、通常の弱視高校生の教科書となると発行数が一桁ということもあり得るわけである。
それでは、現実的にすべての弱視生徒に安定的に拡大教科書を給与していくにはどうすればよいのだろうか。それには原本の教科書データをさまざまな種類の拡大教科書に再編集しやすいデータにしておくことが絶対条件となる。いわゆる「one source, multi use」の実現である。現在、教科書バリアフリー法第五条で文部科学省への提出が義務付けられている教科書データのファイル型式はPDFとされているが、これは単純に原本を拡大し、オンデマンド印刷するには適しているが、レイアウトを変更し再編集するには不向きである。代案として文字は文字、画像は画像というように加工しやすいデータをそろえるという考え方もあるが、HTMLやXMLなどのマークアップ言語がone source, multi useを展開するには最適である。現に先行的な試行としてXMLコンソーシアムの有志が作成した編集ソフトを使えば、文字の字体や大きさを任意に変更し、一人ひとりのニーズに応じた拡大教科書を編集することも数秒でできるようになっている。それを微調整し、PDF化し、オンデマンド印刷すれば個別のニーズに応じた拡大教科書の発行も夢ではない。少なくとも文部科学省が定める標準規格に基づく3,4種類の拡大教科書の発行は現実的な価格で実現できるようになるだろう。その鍵は日本の教科書出版社が欧米諸国のようにマークアップ言語によって教科書データを編集し、尚かつファイルフォーマットの統一化に向けて舵が切れるかどうかということにかかっている。
一方、電子教科書の導入に向けた動きも活発になってきている。文部科学省内には「学校教育の情報化に関する懇談会」が設立された。民間レベルでも「デジタル教科書教材協議会」が立ち上がっており、産学連携の下に研究が促進されつつある。また既に総務省は原口ビジョンとして「2015年までに小中学校の全生徒に電子教科書を配備する」という目標を掲げている。この教科書の電子化の流れは障害児の教科書保障にとっても「教材のユニバーサルデザイン化」という画期的な理想を実現する可能性を秘めている。電子教科書が軌道に乗るためには、@device Acontents Bliteracyなどの用件を揃えなければならないが、障害があっても使いやすい端末、前述のような障害の程度に併せて加工できる教科書データ、適切な操作方法の定着などの用件が揃えば低コストで確実に障害のある児童生徒にも教科書の内容を保障できるという可能性が出てくる。その媒体が画面上になるか、紙面上になるかは弱視生徒自身の視機能や好みにもよるが、画面の場合は瞬時に文字の字体や大きさ、配色などを変更したり、音声を補助的に併用するなどのメリットがあるため、幅広い媒体の選択の自由を保障することが望まれる。更には文部科学省のリーダーシップの下に拡大教科書のみならず、点字教科書、音声教科書などの媒体も効率的に作成できるような制度設計を期待したい。そしてこの仕組みが絵や写真が多用される教科書レベルで確立すれば、次に成人の障害者や高齢者も含め、国民全体の生涯学習や一般図書の読書の環境を保障することにも寄与していくことだろう。
7.(教科書バリアフリー」から「読書バリアフリー」へ
2010年6月18日に閣議決定された新成長戦略には次のように書かれている。
「強い人材」すなわち将来にわたって付加価値を創出し、持続可能な成長を担う若年層や知的創造性(知恵)(ソフトパワー)の育成は、成長の原動力である。教育、スポーツ、文化など様々な分野で、国民一人ひとりの能力を高めることにより、厚みのある人材層を形成する。「強い人材」の実現が、成長の原動力として未来への投資であることを踏まえ、教育力や研究開発力に関し世界最高水準を目指し、効果的な施策に対する公的投資を拡充する。
この新成長戦略に基づき、障害のある児童生徒にも教育の機会均等の理念に基づき、適切な公的投資を求めたい。また、障害者や高齢者を含め、全ての国民に等しく情報を保障するような環境を整えることが「国民一人ひとりの能力を高める」ための土台になることは言うまでもないが、教育や読書のバリアフリー化に関するビジネスが「成長の原動力」の1つにもなり得るような制度設計を期待したい。それが出版の本来の目的である多くの人への情報伝達という意義にも貢献し、最終的には文字・活字文化の共有という人類的な価値にもつながっていくことだろう。