2008年12月7日

「拡大教科書」に関する現状と今後の課題

筑波大学附属視覚特別支援学校学校 宇野和博

1. 弱視と拡大教科書

 「弱視」とは、眼鏡などで矯正しても視力が0.3未満の状態をいうが、その見えにくさは十人十色。視力の問題だけでなく、夜盲の人もいれば、眩しさが苦手な人もいる。視野が狭い人や視野の中心部が欠損している人もいて、それぞれの見え方に対する支援もワンパターンでよいということにはならない。全く見えないわけではなく、様々な見えにくさを抱えているのが実態だ。実にその数は視覚障害者30万人の7割以上と言われている。義務教育段階では、盲学校に約550名、弱視学級に約260名、通常の学級に約1740名程度が在籍している。また、加齢による低視力者を含めると、日本における弱視者の数は100万人以上とも推定されている。
 拡大教科書とは、弱視の子どものために、通常の教科書の文字を大きく太くし、図なども分かりやすく書き直した本のことだ。弱視の程度によっては、拡大コピーで対応できる場合や視野が狭い場合などもあり、弱視児全員に拡大教科書が必要というわけではないが、多くの弱視児が字体や文字の大きさ、レイアウトを組み替えた拡大教科書を望んでいる。ここで大切なのは、子どもたちにとって最も学習しやすい環境を子ども自身が選べるという「選択の自由」を保障することだ。中には社会に出た時に必ずしも拡大文字ばかりあるわけではないから、ルーペなどの視覚補助具の活用のみを指導すべきという意見もあるが、弱視者が社会適応するための能力を育成することと社会が障害者のために環境を整えることは二者択一というものではなく、障害者が生きて行く上で共に必要な両輪と言える。実際に弱視児から「ルーペでは読み速度が遅くなったり、肩がこったりする。」「拡大読書器を長時間使用すると目がとても疲れる。」というような声も聞かれる。
 しかし、拡大教科書が出版されているのは2008年度現在、盲学校でさえ、義務教育段階の国語、社会、算数、数学、理科、英語のみ。また2007年度に通常の学級に在籍する約1740名の弱視児のうち、拡大教科書が入手できたのは634名。しかもその8割の供給をボランティアが担っているが、実はボランティアもパンク状態にあり、供給が追いついていない。つまり多くの弱視児は教科学習の前に教科書を読むこと自体にハンディを背負わされているのが現状だ。弱視児が基礎学力を身につけ、自立し、社会参加していくためにも、この見えにくさに起因する学習上の困難を一刻も早く取り除かなければならない。


2. 拡大教科書普及推進会議と教科書バリアフリー法

 2008年4月、文部科学省は「拡大教科書普及推進会議」を立ち上げ、@拡大教科書の標準規格Aデジタルデータの提供方法B高校における教育方法・教材のあり方について検討を開始した。12月には@では、文字の大きさは18,22,26(小学校低学年は22,26,30)ポイントの3種類とすること、Aでは義務教育段階の教科書の全情報がpdfファイルによりボランティア団体等に提供される仕組みなどが第一次報告としてまとめられた。しかし、Bは12月現在でも検討が続いており、第一次報告には何ら反映されなかった。
 一方国会では2008年6月、「障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律」いわゆる「教科書バリアフリー法」が全会一致で可決、成立した。これまで拡大教科書の保障については法的な整備があまりなされていなかったが、教科.書バリアフリー法の成立により拡大教科書や点字教科書は「教科用特定図書」と位置付けられ、国は教科用特定図書等の普及の促進等に関して必要な措置を講じなければならないと規定された。この立法化は障害児教育の歴史の中でも大きな一歩を踏み出したと言える。また教科書出版社の責務として文部科学省へのデジタルデータの提供と文部科学省が定める標準規格に基づく拡大教科書の発行の努力義務が法定された。しかし教科書の供給は、本来教科書出版社による発行こそが主で、ボランティアの製作は補助であるべきだろう。問題解決の本丸である自社出版が、法律上義務ではなく努力義務とされたことはやや残念だが、教科書バリアフリー法の生命線は教科書出版社が努力義務をどのように捉え、拡大教科書の自社出版がどこまで進むかということである。2008年4月段階では、義務教育段階の検定教科書427点中、出版されている拡大教科書は69点、高等学校段階は盲学校高等部を含め全く発行されていなかった。教科書バリアフリー法の適用が2009年4月からということだが、弱視の子どもたちのまったなしの切実な状況を救えるのは教科書出版社の動向にかかっていると言っても過言ではない。
 しかしながら2009年度から新たに出版される拡大教科書は、10月末現在で427点中76点にとどまっていることが明らかになった。これまでに出版されていた69点と併せても145点で全体の34%程度。義務教育の検定教科書を発行している19社のうち10社は1種類も拡大教科書を発行しないということだ。また高校段階は相変わらず0のまま。拡大教科書の供給体制の充実は、3度の国会付帯決議や2度の文科大臣の所管でもほとんど進まず、最終的に教科書バリアフリー法の制定によって教科書出版社の責務が規定されたところであった。このままでは今度こそ確実に拡大教科書が入手できると信じていた弱視児や保護者の期待も再度裏切られ、教科書を読むという最低限の学習環境すら整えられない子どもたちのニーズが引き続き取り残されることになる。憲法違反とも言えるこのような状態がいつまで続くのか?教科書バリアフリー法に実効性を持たせるにはどうすればよいのか?早急な対応が求められる。


3. 高校における拡大教科書の費用負担

 日本の教育制度では、義務教育段階の教科書は無償、高校からは有償となっている。一方、盲学校(特別支援学校)では、就学奨励費により高等部段階でも教科書は無償とされている。ここで落とし穴になるのは、高校に通う弱視生徒の拡大教科書の費用負担だ。たとえボランティア団体が拡大教科書を製作できたとしても検定教科書より高額になるのは明らか。しかし、数万円から数十万円に及ぶ費用は現在は本人が自己負担するしかない。鳥取県では、2006年度から高校でも拡大教科書を県費で無償給与する制度を設けたが、その他の都道府県にはこのような制度はない。拡大教科書普及推進会議で高校における教材の在り方が検討されているが、せめて検定教科書との差額を公費で補償するような受け皿がなければ、たとえ拡大教科書の供給体制が整えられたとしても、家庭の経済状況によっては拡大教科書を購入できないという事態も起こり得る。これは憲法が定める法の下の平等や教育の機会均等という精神から考えても早急に改善されるべき問題である。


4. 国連障害者の権利条約と国内法

 2006年12月、「障害者の権利条約」が国連で採択された。我が国も既に2007年9月、この条約に署名しており、現在批准に向け国内法の整備が各省庁で進められている。本条約の目的では、「障害者がすべての人権及び基本的自由を差別なしに完全に享有することを保障」と詠われている。具体的には第二十一条で「締約国は、障害者が、第二条に定めるあらゆる形態の意思疎通であって自ら選択するものにより、表現及び意見の自由(他の者と平等に情報及び考えを求め、受け、及び伝える自由を含む。)についての権利を行使することができることを確保するためのすべての適当な措置をとる。」と規定されている。また、第二十四条では「障害者が障害を理由として教育制度一般から排除されないこと及び障害のある児童が障害を理由として無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと」と書かれている
 米国では、2006年12月にNational Instructional Materials Access Center(国立教材アクセスセンター)を設立し、拡大文字や点字による教科書保障を行っている。ここでは、教科書出版社に一定のファイルフォーマットでのデジタルデータ提供を義務付け、センターが拡大文字や点字などの媒体に変換し障害の程度に応じた教科書の提供を行っている。これらの基本的な理念はFair Useということであるが、この考え方は、日本においても教科書のみならず、将来的には教材全般、更には一般図書にまで広げるべき理念と言える。
 「子どもの読書活動の推進に関する法律」の第二条には「子ども(おおむね十八歳以下の者をいう。以下同じ。)の読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであることにかんがみ、すべての子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において自主的に読書活動を行うことができるよう、積極的にそのための環境の整備が推進されなければならない。」とある。「文字・活字文化振興法」の第三条には、「文字・活字文化の振興に関する施策の推進は、すべての国民が、その自主性を尊重されつつ、生涯にわたり、地域、学校、家庭その他の様々な場において、居住する地域、身体的な条件その他の要因にかかわらず、等しく豊かな文字・活字文化の恵沢を享受できる環境を整備することを旨として、行われなければならない。」と書かれている。


5. 総合的な教育環境の整備の必要性

 2007年度から始まった特別支援教育の理念は、「障害のある児童生徒の視点に立って一人一人のニーズを把握し必要な教育的支援を行う」というものである。その支援も乳幼児期から学校卒業まで一貫したものでなければならない。この理念に基づけば、教科書の問題のみならず、障害のある子どもたちの教育環境を総合的且つ具体的に整備していくことが求められる。その前提となるのが実態調査だ。文部科学省が2005年に全国の小・中学校の弱視児童・生徒数を調べた結果、1739名ということが明らかになったが、その後は調査を継続していない。また、高校に在籍する視覚障害生徒の実情は把握していないということだが特別支援教育の第一歩は実態把握と言える。本来はその結果に基づき、センター的機能を有する特別支援学校(盲・聾・養護学校)との連携が計られるべきだろう。
 教科書の次に挙げられる課題はドリルや資料集などの副教材、参考書、問題集などだ。これらの教材についてはまず著作権法上の問題解決から求められる。拡大教科書については、著作権法第三十三条第二項で著作権の制限が規定されているが、これは教科書に限定されている。一方、学校教育に関する著作権の制限は第三十五条にあるが、その対象は「教育を担任する者及び授業を受ける者」と限定されており、介助者やボランティアが副教材などを複製することは著作権者に許諾を得ない限り、違法行為となってしまう。これは拡大のみならず、音声教材や電子データの保障にも同じことが当てはまる。この三十五条に「障害のある児童・生徒の学習を非営利で支援する者」を加え、介助者やボランティアがスムースに拡大教材などの製作に取り掛かれるような法改正が求められる。
 更に視点を広げて考えてみると、学校教育上、必要な書籍というのは必ずしも副教材や参考書に限られるわけではない。子ども読書推進法にあるように晴眼の子どもたちが一般図書を読書するのと同様、弱視の子どもにも多くの本が読めるような環境整備も求められる。


6. 知的財産のユニバーサルデザインとは?

 それでは、障害者や高齢者がどのように文学作品などの著作物を健常者と同じように共有できるのだろうか。ここで大切な理念は「One Source, Multi Use」ということだ。この理念は、障害のある人が自分の読みやすいスタイルで読めるように、元の著作物(One Source)をさまざまな媒体で利用(Multi Use)することである。この考え方をイメージするために大きな木に例えてみよう。一つの著作物は太い幹にあたり、さまざまな身体的条件のある人をそれぞれの葉に例えると、小枝がそのニーズに対応した媒体ということになる。このような大樹を完成させるためのユニバーサルデザインとなる鍵が「電子データ」だ。電子データを加工しやすい状態で、障害者や高齢者がアクセスできるようにしておけば、別の出版社もしくはボランティアでも拡大や点字、音声といった媒体に変換することはそれほど大きな負担ではなくなる。もっとも障害者や高齢者がパソコン上で電子データを利用し、文字を大きくしたり、合成音声で聞いたり、点字ディスプレイで読むなど直接情報にアクセスすることも可能だ。ここでも法律上著作権との調和をどう図るか、供給体制をどのように構築するかという問題を政官民一体で解決していく必要がある。ちなみに国連障害者の権利条約では、「ユニバーサルデザイン」とは、調整又は特別な設計を必要とすることなく、最大限可能な範囲すべての人が使用することのできる製品、環境、計画及びサービスの設計と定義されている。
 このように障害者・高齢者にとってアクセスできる情報の普及や読書の環境を整えることは「国連障害者の権利条約」に批准するための国内法整備や日本国憲法が定める基本的人権の尊重という観点だけでなく、障害者の自立と社会参加を促進し、高齢者の文化的生活を保障することにもつながる。更に言えば、知的財産のユニバーサルデザイン化は我が国の知的で活力ある文化の形成や力強い経済活動に貢献するための基礎的な環境整備とも言える。
 

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